この列島のはるか昔のことを、産経に(月曜毎)連載の「試行私考 日本人解剖 第3章ルーツ」を参考に紹介しましょう。あくまでわたしが理解したところを、わたしの独断と偏見で並び替えた解説です。旧石器時代という時代から縄文時代、そして弥生時代への誘いですね。
まずこの列島で、人が存在した痕跡は、発掘された約4万~3万五千年前の石器で分かるのだそうです。いわゆる旧石器時代と呼ばれる時代ですね。13万年以前には大陸から象が来ていることは確かで、象を追って人も来たであろうことは推測できるのですが、確たる物証は東京小金井市の西之台・中山谷両遺跡で見つかった上記の石器だ…と。
しかし、現代に近い列島の自然環境に適応した人々が誕生したのは、ほぼ2万年前だそうです。最近の学説では、磨製石器を使うから新石器時代…とは言わないようですね。
狩猟・採取時代が長く続き、列島は1万3千年前ころより縄文時代といわれる時代になります。つまり石器時代人が“(素焼きの)縄文土器”を発明したことで、必然的に定住・食料の貯蔵・食物の煮炊き…の生活をするようになったのでしょうか。
なお小山修三・国立民族学博物館名誉教授は昭和53年、いまから6000年~5000年前の列島の人口を、中部以東の東日本に25万2000人(総人口の96%)が住み、近畿以西の西日本はわずか9500人とされました。
しかし4500年前の寒冷化によって東日本の人口は80から90%も減少し、逆に西日本の人口は2倍ほどに増加した…と。そして稲作伝来を受けてこの傾向は加速し、弥生時代には東西の人口は逆転した…とされました。
因みに縄文人は、「縄文語」を駆使したコミュニケーション能力はあった…と。例えば北海道は白滝(遠軽町)の黒曜石が樺太や青森県の旧石器遺跡で、あるいは伊豆神津島のものが関東地方で見つかっていることから考えると、このような広域交易を行う上で言葉を使うコミュニケーション抜きには考えられない…とされています。
どのような言葉だったのでしょうね。和語の祖形…かな? (次は“日本人解剖”よりの図)

この類縁図で見ると、アイヌの人も沖縄の人も、当然わたしたちも、同じ「日本人」であることには変わりありませんね。
1万年以上続いた縄文時代は、約3000年前(紀元前十~九世紀ころ、つまりBC900~800年ころ)に水田稲作の稲の種や技術を持った人々が渡来したことによって終りを迎えました。
これより、水田稲作に代表される弥生時代になったのです。
稲作の起源は約7千~6千年前の長江下・中流域と考えられ、その稲作の河姆渡(かぼと)文明と畑作(かつ牧畜)中心の黄河文明とは競い合っていたようです。
しかしほぼ4200年前の大きな気候変動による寒冷化などで黄河文明は危機に直面し、金属器と馬を伴なって南へ移動したようです。それにはじかれた長江流域の人々は、一部は南へ逃れていまの苗(ミャオ)族などの少数民族となり、一部は黄海を渡って(朝鮮)半島へそしてまた経由して日本列島へ、また一部は直接日本列島へと来たようです。当然、(丸木)船を使って…。
日本の稲の品種はaとbがあるそうですが、長江流域に多いbは半島では見られない…と。だからb種の稲は、半島経由ではない…。また現在の日本の稲や東北アジアの稲は温帯ジャポニカというそうですが、弥生時代の稲のDNAを調べると40%ほどがインドネシアなどに多い熱帯ジャポニカといわれる種であった…と。
これから見ると、列島に伝わった稲のルートおよび時期それに持ち来った人々は、けっこう複雑怪奇である…といわざるを得ないようです。(次は“日本人解剖”よりの図)

稲作を伝えた弥生人(長江下流域の人々および半島経由の混血した人々)は稲に宿る“稲魂(いなたま)”を崇拝し、それまで列島の在来人であり自然界の多くに霊魂の存在を見出してきた(例えば巨石崇拝、女性崇拝など)縄文人の文化とは相容れなかた…と考えられています。
では、どうして列島に稲作が受け入れられたのか。
それは、縄文文化を持っていた在来人が、新たに渡来して来た弥生人と共存しながら、長い時間をかけて弥生文化(単に稲作の技術だけでなく、伴なう祀りなど)を受容していった結果だ…と。
人数の少ない渡来弥生人は、在来の縄文人とお互い補完しあって暮らしたのでしょう。
稲作の列島への伝播時期は、当然北部九州が最も早く、あと四国南部や近畿へ100年から300年後に伝わるのですが、面白いことに東北地方への伝播が関東よりも早いのです。
(次は“日本人解剖”よりの図)

青森の三内丸山縄文遺跡を引き合いに出すまでもなく、集落同士で黒曜石などの交易をするということはそこにリーダーがいた…つまり階級の分化の芽が見られることを表していますね。
ですから当然、性質上集団作業を必要とする水田稲作集落では、階級の分化が顕著になったでしょうし、稲作のない(縄文)集落との(武力を伴なう)諍いもあったでしょう。
武器は主として弓だったのでしょうが、鏃(やじり。ぞく)はやはり黒曜石などの石鏃でしょうね。石鏃の刺さった人骨も見つかっているのだそうです。争いのあと…ですね。
従来の弥生時代は、杉原荘介氏が昭和47年に仮説として発表された区分に従ってきました。
弥生前期: BC300~BC100年
弥生中期: BC100~AD100年
弥生後期: AD100~AD300年
しかし近年、それが150年~200年遡るのではないか…とも言われ、“早期”の区分を挿入しているようです。
しかし平成15年に、国立歴史民俗博物館が発表した区分は、もっと古く遡り、かつ北部九州が最も早く紀元前10世紀~9世紀に弥生時代になる…との説が有力となりました。
次の、“日本人解剖”にある図表を見てください。


これほど詳細に、地域ごとの弥生時代の始まりがわかってきました。
北部九州という地は、よほど大陸や半島の情勢の影響を受けやすいのでしょうね。戦乱とか、民族の移動なども含めて…。
いずれにせよ、弥生中期の前半から中庸にかけて(従来の縄文晩期から弥生早期)の北部九州には、板付(福岡市博多区)や菜畑(佐賀県唐津市)などの水田遺跡が示すように、たわわに稲の実る集落があったのでしょうね。いわゆる「水穂の国」…。
(お詫び)(1)「古事記と日本書紀」の項(p6)下の写真:“同じページ”というのは、上の“ページ1”の写真と同じページという意味ではなく、上下二段になった記述が同じページ(百衲本“魏書”の同じページに上段「魏書紀三・十三」と下段「魏紀三・十四」がある)…という意味でした。
いずれも説明不足でした。お詫びして、以後注意して出典を記します。
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Free Tibet, Free Eastern Turkestan, Free Inner Mongolia and China-Free
人権擁護法案に反対! 定住外国人に対する(地方)参政権付与法案に反対! 特亜からの1000万人移住計画に反対!
北の金豚と左翼のヒルにはめられた、かわいそうな…いや、情けない日本!
外務省に「状況分析官」をおき、日々のニュースや各種解説や論説をウォッチし、“四夷の変”に備えよ。アメリカによる北のテロ支援国家指定解除も、金豚の乞食根性も、本来であればすべてわかっていたはずだ。
外務省は状況分析官をおき、四夷の変に備えよ!
H20.6.22


by jess
『九州王朝』、衰退への道(1…